【禅と生きる】中途半端でいいかな 居場所がなくていいかな 分からないでいいかな
中途半端な自分が嫌いでした。
職人さんやアスリート、研究者、禅僧など何かにとことんこだわって、突き抜けた生き方をされている人をうらやましく思っていました。
禅の学びを深める中で、お坊さんではない在家の人でもすごい人と出会います。豊富な知識、またインドやタイに行ったりしてさまざまな修行を経験されていたり。
そういうとき、深みがない自分に劣等感を覚えるのです。
自分は何者にもなれない。
でも、最近では、中途半端でいいのではないかと思うようになりました。
私は何者でもない。
自分という実体を求めなくていいのではないかと。
そして、相手にも実体はない。
実体を求めている私がいるだけ。
そう思えたとき、無理して実体を探していたことに気づきました。
実体は期待、好き嫌い、評価など思考が作り出すもの。こうした概念が自分や相手という実体に見える。
何か実体のようなものが見えると一瞬安心します。
しかし実体と思っているものこそ、実は幻ではないか。
あるとき、クライアントが透明に見えた瞬間がありました。
実体を求めることを手放すと、透き通って見えるものなのですね。
この瞬間は、自分も透き通っていたように感じます。
自分でもない相手でもない、その「間」に、何かがただ起こっているだけ。
実体を探そうとすると苦しくなる。自己否定になります。
もともと、実体などないのではないか。だから、中途半端でいいし、居場所もなくていい。
そして、分からないくらいが丁度いい。
生き方と禅についてお伝えしているnoteの記事を更新しました。
今回のテーマは「中途半端でいいかな 居場所がなくていいかな 分からないでいいかな」です。