禅を仕事に活かす 成功と失敗を超えた豊かな経験とは
先日、コロナ禍の中で開幕が遅れていた女子ゴルフの初戦が行われました。選手やファンが待ち望んでいたツアーの開幕。
そんな中で、昨年の全英女子オープン覇者である渋野日向子選手は、残念ながら予選落ちでした。
気になったのは、渋野日向子選手が試合後のインタビューで語った「このオフにやってきたことが、すべて意味なかったと思うような内容でした。」という言葉でした。
オフに相当の練習を重ねてきたのだと思います。また、その練習にもかなりの手応えを感じていたのでしょう。だからこそ、悔しさは増しますし、意味がなかったと言いたくなる気持ちも理解できます。
スポーツでもビジネスでも成功するために努力します。その努力が報われないとき、人は「失敗」とジャッジします。
あれだけ応援していたマスコミも、結果が出ないと手のひらを返したように失敗の原因を追及しはじめます。日本は良くも悪くも、失敗とジャッジするのが好きなお国柄と言えます。
ただ、私自身は、渋野選手の今回のプレーを見ていて、失敗とは感じませんでした。むしろ、いい体験をしているなと。これだけ注目されて、期待に応えなければというプレッシャーがどれだけあったか。並の選手であれば、それだけで潰れてしまいます。
しかし、渋野選手はその重圧の中で、随所にいいプレーを見せていました。もちろん、身体が動かない場面もありましたが。
結果が出れば成功、結果が出なければ失敗と断じるのは簡単です。でも、それでは心の中に「成功と失敗」という枠を作ってしまいます。狭い枠はミスを恐れる小さなプレーになっていきます。
いかに、成功と失敗というジャッジを超えたプレーをしていくか。
数年後に振り返れば、どんなプレーもすべて「いい経験」なのです。むしろ、苦い体験ほど糧になるのです。
今この瞬間に起こるプレーは、すべてまっさらな体験です。
まっさらな体験には、何も色はついていません。ボールを目の前にしたとき、「まっさらなゾーン」に飛び込んでいけるか。
これは「初心」と言えます。
初心に戻るためには、「我」を捨て去る必要があります。やってきた努力は過去のものです。努力にこだわれば「できるはずだ」という「期待」になります。上手くできなければ「失望」になります。成功と失敗というのは、期待と失望という執着の世界でもがいているプレーです。
やってきた努力は素晴らしい。しかし、目の前の一打に向かうときには、必要のないものです。どんなショットが出るかなんて誰にも分からないのです。
今この瞬間に初心でいられるとき、「体験」というフレッシュな感覚が生まれます。体験というあり方は裸の状態と言えます。とても繊細で傷つきやすいのです。
だからどんなプレーをしたときも、自分を責めないでほしい。体験をした自分を責めたり批判すると、裸で体験するのが怖くなります。自分をジャッジで守ろうとしてしまう。どんな体験も笑顔で受け入れる心こそ、メンタル力と言えます。
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