お皿が洗ってくれるのを待っている 信仰とコーチング

あなたは議論が好きですか?

現代社会は、自分の主張の正しさを競うような風潮があります。いかに理論武装するか。そして一瞬の隙をついて、相手を論破するか。確かに、ディベートの技術というのは、生きていく上での一つの力といえます。

正直なところ、私は議論が嫌いです。

議論ではない、「対話」があります。

それは、体験のシェアです。

自分が何を体験し、何を感じたか。

個人的体験には正解、不正解はありません。だから、体験は議論の対象にはなりません。

禅の修行は、正解を求めることではありません。坐禅を通して自分に起こっている体験に気づき、体験を深めていくことです。

ジャッジするのではなく、ジャッジを手放す方向です。

議論はジャッジする方向であり、体験のシェアはジャッジを手放す方向の対話といえます。

私のコーチングのセッションでは、体験から何に気付くかを大事にします。体験を深めていくことで、自分を縛っていたジャッジや固定概念から自然に解放されていきます。

先日、厨房の洗い場を見ると、返却されたお皿が洗ってくれるのを待っていました。

このことに関する気づきについて、生きることと禅についてお伝えしているnoteの記事を更新しました。

今回のテーマは「お皿が洗ってくれるのを待っている 信仰とコーチング」です。

お皿が洗ってくれるのを待っている 信仰とコーチング >>

コメントは受け付けていません。

サブコンテンツ

このページの先頭へ