先日、ほぼ一年ぶりにゴルフ場でプレーしてきました。プロゴルファーへのメンタルトレーニングはやってきましたが、自分がプレーするのは本当に久しぶりでした。
この数年間、スポーツにおいて「プレーをしない」メンタルトレーニングのメソッドを開発してきました。
ゴルフでいえば、いかにゴルフをしないか。
ゴルフはするものなのに、ゴルフをしないとはどういうことかと思われた方も多いと思います。
ゴルフをしないというのは、シンプルにいえば、「自分が打つ」「自分がプレーする」という自分が消えた状態。これは禅でいう「無我」「無心」でのプレーともいえます。
しかし、なにもしないというのが実は一番難しいです。人は無意識になにかをしているからです。一方で禅は「しないことをする」無心の修行といえます。
「ゴルフをしない」ために、禅のほかにも東洋の身体技法を取り入れて、無心のプレーを技化しています。
この日のラウンドはゼロベースでプレーするために、スコアをつけることを止めました。
皆さんはスコアをつけずに、コースをラウンドをしたことがあるでしょうか。18ホールすべてスコアをつけないのは、個人的にははじめての体験です。
スコアをつけないラウンドというのは、スコアを意識してプレーするラウンドとはまったく別物です。手応えや目標がないというのは、一見すると退屈ですが、これほど無限の可能性を秘めたプレーはありません。
ラウンド後に自分で体感したスコアをいっしょに回ったプロゴルファーに伝えたところ、実は実際のスコアは思っていたよりかなり少なかったのです。
これはどういうことが起きているのでしょうか。
人の記憶には、上手くいかなかったホールのことがより強く残っているのです。あるいは、バーディがとれたホールのことも覚えています。上手くいかない、上手くいったというのは両方とも「なにかあった」ことです。
「なにかあった」ことは、記憶に残りやすい。一方で、普通にプレー出来て、パーがとれたホールのことはあまり記憶に残っていない。
なので、私が感じたスコアと実際のスコアにはズレが生じていたのです。
普段私たちは「なにかある」ことを求めています。あるいは、なにかあることを記憶にとどめて生きています。これは、逆にいえば、「なにもない」ことはほとんど意識されていないということです。
ちなみに私は怒りっぽいという人がおられます。もちろん、怒る回数は多いのでしょう。では、腹が立っていないときはどれくらいあるでしょうか。これは分かりません。
なぜなら腹が立っていないとき、腹が立つことを忘れているからです。
「なにかある」世界は有限です。一方で「なにもない」世界は無限です。スポーツだけではなく、仕事や普段の生活でもいかに「なにもない」世界へ入っていけるか。
生きることと禅についてお伝えしているnoteの記事を更新しました。
今回のテーマは「人生が反転するとき 「貪・瞋・痴」から「不貪・不瞋・不痴」へ」です。
https://note.com/zen_akano/n/n85fe622692c4