禅とメンタルトレーニング 「ただ」の心

先日ある野球チームで、指導者が無心になれというアドバイスをしているのを聞きました。ただ、選手たちも無心の大切さを頭では分かっていても、それを体現するのは難しい。

ちなみに皆さんは、「無心」の境地はどんな感じだと思いますか?

私が修行させていただいている禅の老師は「ただ」という状態ですねと話されていました。

「ただ」の状態???その時はよく分かりませんでした。

それが最近、山を歩いているときに、「ただ」を感じる機会がありました。その日はとても疲れていたので、ゆっくり一歩一歩進むのがやっとでした。何とか頂上までたどり着いたところ、すごく心地よい風が吹いていました。

心も体もリラックスしたあと下山していると、いつしか「ただ歩く」という感覚になったのです。何も考えず、すごく心も体も軽かった感じを覚えています。

一方で普段は、「ただ歩く」という感覚ではないことにも気づきました。時間に追われて焦っていたり、次の予定や仕事のことを考えていたり。これでは、何かいろいろなものが混ざっていて、重い鎧をつけて懸命に歩いている状態です。

ちなみに坐禅は、「ただ坐る」ということです。

坐禅をしたらどうなるのか?何が得られるのか?

そう考え始めると、それは坐禅ではなくなります。目的や結果をいっさい求めない心こそが坐禅であり、「ただ坐る」ということです。すべて余分なものを外して、シンプルになっていくのです。

そこが西洋の一般的なメディテーションと呼ばれる瞑想法や脳トレーニングとは、根本的に違う点です。西洋を起源とするメンタルトレーニングでは、集中力を高める、モチベーションを上げる、疲れをとるなど何かの目的を持って瞑想に取り組みます。

この目的思考はアメリカでメンタルトレーニングをしていて、非常によく感じることです。坐禅をしていても、これはどのような効果があるのか?科学的根拠はあるのか?なぜこの姿勢なのか?といった理由や効果を尋ねる人が多いのです。

「ただ坐る」と説明しても、納得されない方も多いです。これは、目的がないことは意味がないという西洋の価値観なのだと思います。

誤解がないように申し上げると、目的を持たない坐禅と目的を達成するための瞑想のトレーニング、どちらが良い悪いではありません。ただ違うということなのです。なので、私もメンタルトレーニングでは両方を選手の状況に応じて使い分けています。

ただ、人は「ただ坐る」ということの方が難しいようです。何か結果を出すために行動するほうが慣れているのです。「ただの心」をつくろうとすると、心も体も余分な力を抜いてシンプルにしていく必要があります。

あるベテランのプロゴルファーは、「ただ上げて下ろすというときが一番いい状態ですね」と話されていました。調子が悪くなってくると、あれこれ考えてプレーやスイングに迷いが出るそうです。そこで、「ただの心」の話をしたところ、すごく共感されていました。

「ただ上げて下ろす」ことが出来ている時はいいのですが、試合では環境や同伴者、スコアなどに心を持っていかれて、ムラがあったそうです。そこで、普段から「ただの心」を心がけて生活し、練習でもただ上げて下ろすというシンプルな状態に持っていけるかを心の基準にすることにしました。結果的に少しずつ試合でも「ただの心」の時間が増えてきて、プレーの安定感が抜群に増したと話されていました。

もちろん、一生懸命頑張って生きるのもいいですが、いかに淡々と生きるか。ただ打つ、ただ歩く、ただ食べる、ただその場にいる。そんな感じをぜひ作ってみてください。

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