皆さんは、坐禅にトライされたことはありますか?プロのアスリートでも一週間くらいはやってみるものの、日々続けるのはなかなか難しいようです。人は努力したことで、早く目に見える結果が欲しいのです。例えばウェートトレーニングは、やっただけの変化が体に現れるので続けられるのだと思います。一方坐禅をしても目に見える変化はすぐに現れませんし、上手く出来ないことの方が圧倒的に多いです。実は変化が見えない、うまく出来ないことが坐禅の本質なのです。

坐禅で効果を求めると、それは坐禅ではありません。坐ることに、どういう意味があるのかを考えるのも同じ。それらは「頭で坐っている」状態なのです。坐禅とは「ただ坐る」こと。非常に地味な取り組みです。それに対して、世俗的な瞑想のプラクティスでは、呼吸に集中することで、心が静かになり、集中力が高まる。もしくは直感力が高まり、クリエイティブなアイデアが湧いてくるという効果を求めて行われます。両者はどちらがいい悪いということではなく、坐っているときのあり方が違うのです。

ショットでいえば、結果や修正などを考えながら打っているときと、何も考えずただ打っているときの差。恐らく、何も考えず打つというのが一番難しいです。ただ打つというのは、いかに体を感じる力を高めるか。感じる力が高まった結果、考えることが減っていくのです。これが「無心」への入り口です。

坐禅に取り組んでも、すぐに効果は分かりません。しかし、すぐにできるといろいろと考え始め、もっともっとと欲が膨らんでいく。できないから、無心になれるのです。また「ただ坐る」中で、できないことを受け入れる心や耐える心が自然に培われます。これらは長く第一線で活躍できている選手が持っている「しぶとさ」であり、「しなやかさ」であり、「したたかさ」と言えます。

そして坐禅を続けることで、結果的にさまざまな変化が現れます。まずは、身体感覚が磨ぎ澄まされます。ゴルフでいえばフィーリングや距離感が良くなります。さらに思考を減らすことで、より無心に近い状態でプレーできるようになります。「無心」をトレーニングすることで、究極の集中状態といわれる「ゾーン」に入りやすくなります。

ちなみに選手達とメンタルトレーニングをしていると、なぜ坐禅はあの痛い姿勢なのかと問われることがあります。坐禅を組むときに足の上で丸い形を両手で組みます。「法界定印」と呼ばれるあの形は、宇宙を表しているとも言われています。曹洞宗では右手が下、左手が上と指導されます。

実は、先日師匠から、坐禅はなぜあの手の形なのか、興味深いご指導をいただきました。実際右手を下にした場合と、上にした場合は何か違うのか。2種類を試してみると、右手を下にした場合は体を押されても安定していますが、右手を上にすると、体が安定せず、肩を押されると、簡単に動いてしまいます。手の組み方一つにしても、古からの知恵がそこには凝縮されているのです。まずは、一日5分でもいいので、「ただ坐る」時間を持つことから初めてみましょう。