ある男子プロゴルファーは、メンタルトレーニングを重ねる中で、あるとき「スウィングがスウィングしている」という感覚になったと話していました。

ある著名な画家は「筆、おのずから動く」と自らの体験を語っています。これはいわゆる「ゾーン」の状態であり、禅でいう「無心」と言えます。

スウィングするという意識が捨てられたときに、無心のスウィングが現れてきます。

これは曹洞宗の開祖道元禅師が「正法眼蔵」で説いた「身心一如」であり、身体と心が一つのものの両面であるということにつながります。

大事なことは、「身心」であって「心身」ではないということです。あくまで身体が先にあって、心が立ち上がってくる。坐禅はまさに身から心を整えていく鍛錬といえます。

私たちは、言葉で理解し分かったような気になります。これが良い悪いではなく、人間の特徴です。心は言葉を生み出します。そして、心から我が身を整えようとするのです。ただ、すべてのスポーツで言えるのですが、言葉になったプレーでは、自分の限界を超えることはできません。言葉になっていない世界とつながったとき、そこにゾーンであり、無心のプレーが生まれるのです。

無心が現れるときには、自らのスウィングは言葉になっていません。自分がスウィングするという「自我」を離れた「無我」の状態であり、それが「スウィングがスウィングする」という状態です。

スポーツでは、上手くなろうとして練習します。練習する中で技術が向上していきますが、一方で頭の力みも蓄積されていきます。

練習する中で、いろいろな答えが生まれます。「これが自分の課題だ」「こうすればよかったのだ」今まで分からなかったことが、分かるようになるのです。

しかし、実はこの「分かった」という状態は長続きしません。一瞬です。分かったときには、分かったことが言葉になります。それが手応えのように感じるのですが、逆にいえば、その手応えが素のプレーを邪魔しはじめるのです。このままやっていると、どんどん言葉が身体の動きを邪魔するようになります。これが練習するほど下手になったように感じる状態です。

練習する中で、さまざまな技術を習得することは上達には欠かすことはできません。練習で掴んだ感覚は大事です。しかし、この感覚が言葉になると、今度はその言葉が自分の動きを縛り始めます。掴んだと思ったら、今度は手放す必要があります。「練習してコツを掴む→手放す」この繰り返しの中で、技は磨かれていきます。

しかし、どの分野のアスリートも、掴んだものを手放すことが苦手です。一度掴んだ感覚を大事にしたいのは分かりますが、これは過去に執着している状態。手放す訓練というのはメンタルトレーニングの中での大事なテーマなのです。

無心のスウィングにむけてゴルファーの皆さんに挑戦していただきたいのは、ボールを打つときに、いかに言葉にしないか。「こう打とう」「ここに打とう」はすべて言葉です。

スウィングが言葉になる前に打ちましょう。言葉で聞くと難しいように感じるかもしれませんが、言葉以外のものに意識をむければいいのです。

風や呼吸を感じてみる。意識のフォーカスを身体に向けるのです。そして、ターゲット方向に目を向ける。そして、身体を構えてみる。すべて身体の動きに任せます。心の役割はただその働きを観察するだけです。常に身体が先で心の働きは後です。身体が主で、心は受け身ともいえます。このとき出来るだけ言葉にしないことです。打った後に、どれだけ言葉が減ったかをチェックしてみてください。

以前のコラムで、「言葉を音に戻す」という修行についてお伝えしましたが、言葉が浮かんできても意味をつけるのではなく、音のように聴けるといいですね。言葉が減るほど身体のスウィングに戻っていきます。

そして、ボールを打った後にも言葉にしないこと。それは分析をしないということです。ボールを打った後には、さまざまな感覚が心と身体に残っています。ただ、それを味わうだけでいいのです。

週刊ゴルフダイジェストに連載中のメンタルトレーニングのコラム「禅の境地へ」第160回のテーマは「打ち気を消す 欲を捨て心の力みがとれたときあなた本来のスウィングになる」です。

もしあなたが「無心のスウィング」という言葉に心惹かれたとしたら、それは探究への道がはじまっているということ。

私も、「無心のスウィング」の探求者の1人です。これからひとつひとつ紐解くことに挑戦したいと思います。お楽しみに。