スポーツでは、ボールをよく見なさいと指導されます。
これは、ボールから目を離さずしっかり見ることで、
しっかりボールを捉えることが出来るという考え方に基づいています。

しかし、実は、ボールを見すぎることで
逆に動きがぎこちなくなっている選手も多くいるのです。
メンタルの面からいうと、ボールを見すぎることは
むじろ心や体に悪い影響をもたらします。

ゴルフでも、アドレスで構えた時に、ボールを見すぎる選手がいます。
しっかり打とうするとする気持ちや、
きちんとボールに当たるだろうかと不安な気持ちが
自然にボールを見るという行為になっていきます。

そうすると、普段よりも見るということに
気が付かないうちに力が入っています。
目に力が入ることで、クラブを振るという肝心な感覚が鈍ります。

素振りではしっかりクラブの重みを感じられていたのに、
ボールを打つときになると、素振りの感覚がなくなったというのは、
「見る」という感覚に心が持っていかれているためです。

人は、思考しているときには思考に心を持っていかれます。
思考しながら景色を観察したり、
周りの音に焦点を合わせたりすることはできません。
見るという行為も同じです。
見ることに焦点を合わせすぎると、
振るという体の感覚が失われてしまいます。

また、本番ではボールの行方も見ようとしすぎます。
ショットの結果を早く見ようとすると、
身体が起き上がったり、振りきれなくなったりします。

これは「欲」や「不安」から見ようとしすぎている目なのです。
「欲」の目では、物事の本質を見ることはできません。

「見る」ではなく、「見える」くらいが丁度良いのです。

アドレスのとき、ボールが「見える」。
ショットを打った後、ボールの行方が「見える」。

「見る」というのは能動的な行為。
一方で、「見える」というのは目に飛び込んでくる感覚であり、
受け身な行為です。

禅では、座禅を組むときに「半眼」で行います。
半眼とは、瞼を半分くらいまで落とした状態です。

これをなぜ行うのか、ずっと疑問だったのですが、
先日尊敬している禅の老師から、
「見すぎないようにするためですよ。半眼とは
がつがつ見ようとしない目です」と教えていただきました。

見ようとすると、逆に他の色々なものが見えなくなります。
半眼にすることで、見ようとするのでなく、
見えてくる感覚を持つことができます。
これがもっとも感覚が研ぎ澄まされている状態であり、
結果として、いろいろなものが目に飛び込んできたり、
身体の感覚や周りの音が感じられたりするのです。

また、半眼にすることで目の力が緩み、
心と身体の緊張が解けていきます。

テニスでも野球でも、ボールを見ようとして見すぎると、
選手の体のキレが悪くなります。
見えているぐらいで体は十分、自然に反応してくれるのです。
見すぎる癖がある人は、目の力を緩めて、
瞼を少し落として見るのも効果的です。

大事なことは、懸命にターゲットを「見る」目から
「見える」という目にスイッチすることです。
「見える」とは、周りのものが目に飛び込んでくる感覚です。
「見える」目になることで、自分にもう一度心が戻ってきます。

英語では「look」から「see」にする感覚。
「listen」ではなく「hear」の感覚です。

ここからは、少し深い話になりますので、
興味ある人だけ読んでください。

私たちの世界は、「私」からスタートしているのでしょうか?
それとも、「私たち」からスタートしていると思いますか?

禅の考え方では、世界は「私たち」からスタートしています。
これは禅だけの哲学というよりも
地球が最初エネルギー体からスタートし、
それが少しずつ目に見える形に変化してきたことから考えても、
もともと一つなのです。

ということは、私からスタートすることは
本来のあり方とは違うのです。

相手との戦いに勝つ、試合を制する、
自然との戦い、自然を制するという意識だと、
常に自分は1人という感覚になっていきます。
うまくいっているときはいいのですが、
ひとたび調子が落ちてくると、
孤独感でいっぱいになってくるのです。

パターのラインを読むのが課題だったプロゴルファーは、
「見える」目を持つことで、自然の中に溶け込んでいるような
感覚になるそうです。
そのことで、立体的にグリーンが見えるようになりました。

今までは、カップにボールをねじ込むためにラインを読んでいました。
これは見すぎる目だったのです。
そうすると、アンジュレーションやグリーンの芽が
どうしてもぼんやりと平たんに見え、
のぼり、くだりの微妙な感覚が生まれなかったのです。

「見える」目を持つことで、
グリーンの奥にある木々、自然の中にあるグリーン、
そしてグリーンの中にあるカップ、
またカップに差してある旗などの遠近感がはっきりと
見えてくるようになりました。

カップは決して特別なものではなく、
そこにただカップという存在があっただけだったのです。

そうすると、勝手にラインも読めるようになり、
またストロークもよりスムースになりました。

また「見える」という目は、身体にも大きな影響を与えます。
不安なときほど、ボールを見ようと目に力が入っていたのです。
普段は力を入れて見ていないはずです。
しかし、入れたいと気持ちが強くなると、
無意識にボールを強く見ます。
そのせいでストロークがぎこちなくなっていました。

ところが、「見える」という目を作ると、
自然に目の力が緩まって、その結果ストロークがスムースになり、
以前のような距離感が戻ってきたのです。

「見える」目は、止まっているボールを打つときだけに
使えるノウハウではありません。
たとえば、ボール、自分、相手選手がすべて常に動いている
テニスにも言えます。

「見よう」、「打とう」とすると、反応が遅れます。
テニスにおいては、相手のボールに体が反応するのに
任せるのが「見える」目です。

また、見すぎる目とは、目えるものばかりに意識がいった状態。
ビジネスでいえば、結果や目標、です。
見える数字にばかりこだわると、大事なことが見えなくなります。

一方見える目とは、見ようとしないことで、普段見えていなかったものが見えてくる目とも言えます。

欲にかられた見すぎる目では、真実は決して見えません。
「見える目」をぜひ試してみてくださいね。