先月のロスへの訪問では、
映画『Buddhist 今を生きようとする人たち』の上映会を
開催させていただきました。

映画には、曹洞宗と浄土真宗の計6人の僧侶が登場します。
曹洞宗の開祖である道元は、自力の教えを、
浄土真宗の開祖である親鸞は、他力の教きました。

仏教の中で、「自力」と「他力」をどう捉えるかというのは、
古からの大きなテーマです。

私の心に残ったのは、映画の中で、禅の師匠である藤田一照さんが、
自力と他力についてお話されていたことです。

「この世には、どうにかなることと、どうにもならないことがある。
どうにかなることをどうにかしようとしないのは愚かといえる。
そして、どうにもならないことをどうにかしようとするのも
愚かといえる。これが自力と他力の一つの捉え方ではないか。」

また、今回ロサンゼルスで上映会の場所を提供してくださった、
曹洞宗の小島秀明住職は、自力と他力について、
映画の鑑賞後、次のようにおっしゃいました。

「どちらから見るか(の違いがある)だけ。
自力は他力があるから見える。そして、他力は自力があるから見える。
いい悪いではないし、実は別の物でもない。
曹洞宗と浄土真宗は自力、他力と言われるけど、実は一番仲がいいんです。」

今回、小島先生にお会いして、これまで私が考えてきたことを
一生懸命お伝えしました。
すると小島先生は、「まあ、いい加減でいいんじゃないですか。」と
笑いながらおっしゃいました。

「いい加減」という言葉は、中途半端なことを表す一方で、
「いい塩梅(あんばい)」という意味もあります。

自分が一つの見方につい、こだわっていることに
ハッと気づかされました。

何にもとらわれない心が禅。しかし、とれわれるのが人間。
そのはざまで、どう生きていくか。

小島先生は「禅は逆の心です」とも、おっしゃいました。

私なりに解釈すると、人は何かに偏るので、それに気づく。
そして、その逆を心に持っておくと、フラットになれる。
しかし、そのフラットな状態は瞬間のもので、常に動き続けている
ということではないかと思います。

自分にできることは何か?
まずは、自力でできることをしっかりやっているか。

自分に出来ないことは何か?
何ものにも執着せず、自分の身を投げ出せた瞬間に、
他力のありがたさが身に染みます。

これは、考えて答えが出る問いではありません。
全力で今この瞬間に立っているとき、肌で感じることなのだと思います。